平成29年(ワ)第50号安保関連法違憲国家賠償請求・差止め請求事件
原告 川原 茂雄 外
被告 国
陳 述 書
平成29年(2017)8月25日
札幌地方裁判所民事5部合議係 御中
小樽市望洋台1-7-20
氏名 鳴海一芳
私は1954年に北海道足寄郡足寄町で生まれました。
直接の戦争体験はありませんが、戦争にまつわる記憶があり、それらの記憶や日本国憲法を学ぶ中で、世界の恒久平和は武力によって実現しないことを確信しています。
今般の集団的自衛権を認めた安保関連法により私の確信が否定され、平和的生存権及び人格権が侵害されたので国を訴えることにしました。
私が小学校低学年の時、深く傷ついた事件がありました。田舎に住んでいた私にとって最大の楽しみのひとつが年に1~2回、帯広の藤丸デパートでカツカレーを食べることでした。
その日も国鉄帯広駅から藤丸デパートに向かっていると、デパートの手前で何やら白装束の男たち数人が歩道に座り込んでいるのです。よく見ると、足のない人や顔の半分を汚れた包帯で巻いた人など、幽霊のような不気味な存在に見えました。
私は怖くて母の後ろに隠れましたが、母は小銭を私に握らせて男たちの手前においてある箱に入れるように言ったのです。恐怖心でいっぱいでしたが私は小銭を箱に投げ入れて走って戻ったことを記憶しています。
後になってわかりましたが、それは傷痍軍人だったのです。戦争が何かはわかりませんでしたが、なにやら恐ろしいことであることは幼心にしっかりと刻まれました。
その後、中学生の時日本国憲法について学びました。そして、それによって私の心の霧が一気に晴れたのです。基本的人権や男女平等など素晴らしい内容に感激しましたが何より平和主義に心躍らされました。幼い時に見た傷痍軍人をもう見なくて済む、世界は平和になるんだ、なにより武力を放棄した平和な日本に生きている自分が誇らしく嬉しかったのです。
成人してから父とお酒を飲む機会があり、それまであまり話さなかった父の戦争体験を聞くことがありました。
父は樺太(現在のサハリン)で生まれ、20歳の時現地召集され、新兵教育を受けて前線に配備される、というときに敗戦になりました。その後父は、ソ連軍の捕虜となりシベリアに3年半抑留されました。
父は過酷なシベリア抑留体験はあまり話しませんでしたが、酔うと日本軍の新兵教育の酷さをたびたび口にしました。いじめやリンチ(私刑)が日常茶飯事であり、鼓膜を破られた同期もいたようです。些細なことで殴られたり、連帯責任を名目に懲罰を受けたことがとても納得いかなかったようで、その時抗弁できなかったことが悔しくて、より許せないという気持ちになっていたのだと思います。
戦場にあっては上官の命令が絶対であり、兵士に絶対服従を強いるために行なわれたと思いますが、軍隊という組織の非人間的な側面を見た気がします。
理不尽な戦争で故郷を奪われた父にとって、戦争はどんなことがあってもしてはならないという、今はなき父からのメッセージだったと思います。
私は縁あって1975年に横浜地裁に採用され、38年間裁判所で仕事をしました。
裁判所は裁判官をはじめ職員も誠実で職務に真摯に取り組み日々努力をしていることを私は知っています。一部の人たちが言うような、裁判所が権力の手先であるなどとも思っていません。
実際に経験したことでいえば、例えば川崎支部にいた時は川崎公害裁判が行なわれていました。膨大な記録で保管する場所がなくなり普段使われていない部屋を利用したことを覚えています。あの膨大な記録から判決を導き出すことは人間技とは思えませんでした。
川崎公害裁判がその後の排ガス規制などに与えた影響は計り知れないと思います。
また、国労横浜人活裁判も画期的なものでした。当局によるでっち上げの刑事事件でしたが完全無罪判決がでました。国鉄分割民営化という国を挙げての騒動のさなかの難しい判断だったと思います。完膚なまでの判決で控訴もできずに確定しました。
私が県国公(神奈川県国家公務員共闘会議)議長をしていた時の横浜税関賃金差別裁判の最高裁判決も忘れられません。税関における組合差別を認め、全税関労組が勝訴したのです。国家公務員が国を相手に損害賠償を請求し勝訴するのは難しいと言われていたので、大変大きな成果だったと記憶しています。
安倍自公政権は2015年9月19日、多くの国民の反対の声を押し切って、更には圧倒的多数の憲法学者や山口元最高裁長官が新聞社のインタビューに違憲であると指摘したにも関わらず強行採決により安保関連法を成立させました。
これまで政府は、日本国憲法は自衛権を否定していないのだから専守防衛(個別的自衛権)の自衛隊は憲法違反ではない、と国民に説明してきました。ところが、集団的自衛権を自衛隊に付与してしまったがために、2年前から政府見解からいっても、自衛隊は違憲の存在になってしまったと思います。これに慌てた安倍首相は新たに9条3項をもうけ、自衛隊を明記する、などといっています。違憲立法をしておきながら、違憲立法に憲法を合わせるなどという立憲主義の否定は絶対許すことができません。
戦後70年以上が経過しても世界から戦争の惨禍がなくなりません。武力に対する武力の行使はむしろ紛争を激化しテロを誘発しています。
私たちは歴史から学ぶべきです。
今や、日本国憲法の平和主義、つまり武力によらない解決こそが恒久平和の最善の方法であることが明らかになっていると私は思います。日本国憲法9条は理想ではなく現実になっているのではないでしょうか。
私は19歳の時、札幌でアルバイトをしていました。あるとき、長沼ナイキ訴訟の判決があることを知り、一人で札幌地裁に向かいました。今から44年前の1973年9月7日のことです。札幌地裁の前は大勢の人でいっぱいでした。自衛隊が違憲であるという判決が出た時、大きな歓声が真っ青な空に吸い込まれていくのをみて幸せな解放感を感じました。本当に心から嬉しかったのです。日本国憲法の平和主義が一層輝きを増し、これによって世界の平和に大きな貢献ができるのではないか、との期待も私の中に広がったのです。残念なことにその後の日本政府はこの日本国憲法の平和主義をほとんど活用せず、むしろ否定的に扱うことが多かったと思います。
私は今、運命と喜びを感じています。44年前この札幌地裁の前で素晴らしい判決と間近に接することができ、その後日本国憲法のもとにある裁判所で仕事をし、そしていま札幌地裁の法廷で日本国憲法の平和主義こそが世界の恒久平和に必要である、と述べることができるからです。
私はこれまで信じてきた日本国憲法の平和主義が否定され、いつ日本が戦争の当事者になり、人命が失われるのではないかとの恐怖に日々さいなまれています。
以上から国にあっては、一刻も早く違憲立法の安保関連法を廃止し、日本国憲法の平和主義のもと世界の恒久平和のために努力することを望みます。
裁判所にあっては、日本国憲法のもと正義と良心に従って安保関連法が違憲立法であるという判断をしていただくよう心からお願いいたします。